育児は時間を奪うのか

「育児は時間を奪うのではない。時間の本質を再構築する営みである。」
― 鴨川エンイチロウ

問いの背景:消失の焦り

赤ちゃんが生まれて以来、私は「時間がない」という感覚に苛まれ続けてきた。夜中の泣き声に起こされ貴重な休みも次から次へと降りかかる我が子の世話に追われる。かつて自分のものだった時間は、育児という名の渦に飲み込まれ、消え去ったように感じられた。

しかし、その「奪われた」という感覚は本当に正しいのだろうか?育児にかける時間はただむなしく消失していくだけなのか?私はこの問いについて、日々の中で何度も考え直すことになった。

時間が「奪われる」という感覚

育児は予測不可能な出来事に満ちている。たとえば、朝の10分で済むはずだった準備が、赤ちゃんの突然の「おむつ爆発」で30分に膨れ上がる。さらに追い打ちをかけるように暴れ出し、ミルクを吐き戻し、残酷にもインターホンのチャイムが重なる。

学校やビジネス社会においては時間割りやスケジュール、段取り、効率性が当然に重視される。それに慣れきった私たちは、自分の立てた計画が全く通じず思い通りにことが進まない育児に、非効率さと無能感を感じ無意識にイライラしてしまう。それが「時間が奪われた」という感覚の正体なのではないか。

時間の本質を問い直す

では、そもそも人生における「自分の時間」とは何か。育児を通じて、私はその本質を考え直すことになった。

赤ちゃんと過ごす日々の中で、ふとした瞬間が心に刻まれる。泣き声が静まり、赤ちゃんが微笑むその一瞬。夜中、すやすや眠る赤ちゃんの顔を眺めるときの心の安らぎ。言葉にならない声で話しかけてくれたときの喜び。それらは、「効率」や「生産性」とは無縁だが、私の心を満たし、他のどんな時とも比較できない価値を持っている。

育児は、時間を「管理」する感覚を揺さぶる。そして、時間を「共有」することの価値を再発見させる。赤ちゃんと過ごす時間の中で、私の中にあった「効率的に管理する時間」という概念が崩れ去り、「誰かとただ共にいる時間」という新しい感覚が芽生えていった。再構築された時間は、計画通りに動かす時間とは異なり、人間の根本的な幸福感を形作っている。

さらに育児の時間は、私自身を見つめ直す契機でもある。赤ちゃんに振り回され、予測不能な日々の中で、私の中の価値観が揺さぶられ、新しい視点が生まれてくる。

こうして育児を通じて私が得たのは、「時間」そのものが持つ豊かさを再発見する機会だった。育児は、時間を奪うどころか、時間の価値を再構築していく営みなのだ。

問いは続く

育児に答えはない。ただ、問い続けることだけが、親としての存在を形作る。
赤ちゃんが投げかける問いに向き合うその時間が、私の哲学する育児だ。